「鉱泉(温泉)」がなぜ、鉱泉でなくなってしまったのでしょうか?
温泉療法を科学的にバックアップする姿勢
現行の「温泉法」は昭和23(1948)年に制定されました。それまでは温泉に関する法制は甚だ不備で、明治憲法第9条の天皇の警察命令大権に基づく地方長官の取締命令が温泉について規定していたわけです。各府県における「温(鉱)泉地区取締規則」です。目的は温泉源の保護と温泉の適正な利用でした。
日本人と温泉の係わりの歴史はずいぶん古いのですが、行政の対象として取り上げられてからはまだ歴史は浅いと言ってもいいでしょう。明治6(1873)年7月、当時衛生行政を担当していた文部省が、各府県に対して、鉱泉湧出の時代、年月日等を調査報告するよう命じたのが最初であったと言われています。
明治8年5月に衛生行政が内務省に移管されたことに伴い、温泉行政も内務省の所管となります。翌9年に内務省衛生局は「鉱泉試験表表式」を定めます。ここで初めて、泉名、地名、温度、成分等の表記方法の統一が図られることになるのです。
温泉行政の緊急課題が、温泉の分析調査を促進して、医治効能を明確にし、浴用、飲用方法の周知を図ることだったからです。江戸時代以降、日本人の間に広く普及していた”湯治”という温泉療法を、科学的にバックアップしようというわが国の姿勢がはっきりと打ち出されたといってもいいでしょう。江戸前期から明治、大正、昭和中期に至るまで、温泉はわが国の”治療医学””予防医学”において重要な役割を担うことになります。
その一連の動きを加速させた人物に、”お雇い外国人”ドイツ人医師エルウィン・ベルツ博士がいました。ベルツ博士は、29年もの長きにわたって東京医学校(現東京大学医学部)教授として、明治維新以降の日本の近代医学の発展に深く係わり、後には”日本の近代医学の父”と呼ばれています。ベルツは西洋医学の指導のために来日したのですが、日本の”湯治”と温泉に非常に関心を持ち、明治13(1880)年に内務省中央衛生会から『日本鉱泉論』を出版し、日本人の温泉への科学的な関心を一段と高めることに貢献しています。