読む!?温泉 第11話 榕菴という〝偉才〟をつくり出した英才教育

 宇田川榕菴は申し分ない知的環境のなかで育てられました。
 事実、養父榛斎は15歳の榕菴を徹底的な英才教育で鍛えます。蘭学よりもむしろ漢学教育に徹したのです。このことが第8話で触れたような蘭語の化学用語を的確な”和製漢語”で翻訳する能力につながったものと思われ、さすがです。

漢学の素養を身につけた後、オランダ語を学ぶ

2世紀末に後漢の医師、張中景が書いたと言われる『傷寒論』は、江戸時代に発達したわが国独自の漢方医学に影響を与えた。写真は江戸期の高名な医学者、香川修徳・校閲で安永4年に出版された『傷寒論』(松田忠徳・所蔵)

 榕菴は養子になった翌年の文化9(1812)年から、『素問』、『霊柩』などを読み、『傷寒論』、『金匱(きんき)要略』などの中国医学の古典を養祖父玄随の弟子であった能条保菴に学び、”多識の学”(博物学)を藩医井岡桜仙に学びます。また本草学を実地で勉強するため、春から秋にかけては山野で植物採集をしたと、『自叙年譜』にあります。
 榕菴はオランダ語の勉強を養父に願い出ますが、漢学の文章を学んだ後にオランダ語を学ぶよう榛斎に誡(いまし)められています。西洋医学の学徒とはいえ、医師の基本は漢方医学で、まずは漢学の素養をしっかり身につけることが肝要と考えたに違いありません。
 かくして榕菴18歳になった文化12年、満を持してオランダ語学習の解禁を迎えます。榕菴は、オランダ語、フランス語、英語、ロシア語等を学んだ馬場佐十郎主宰の馬場塾に学びます。馬場は「当代随一のオランダ語通訳」といわれる存在でした。さらに当時、もっとも進んだオランダ語文法書『六格前篇』3巻を著し、後に蘭医として尾張藩に召しかかえられた吉雄俊三の下で、さらにオランダ語を磨きます。

このコンテンツは会員限定です。無料の会員登録で続きをお読みいただけます。
無料の会員登録
会員の方はこちら
タイトルとURLをコピーしました