宇田川榕菴(1798~1846)は幼名を江沢榕(よう)といいます。寛政10(1798)年、大垣藩侍医江沢養樹の長男として、江戸呉服門外に生まれています。
実父養樹は越後の出身で、本姓中島、江戸に出て、大垣藩江沢養寿の養嗣子となり、津山藩医の宇田川玄随(げんずい)と、その弟子、安岡(のち宇田川)玄真に蘭学を学びます。訳述書に『内科要略』、『蘭家油薬採造』などがあります。


岡田千曳著『紅毛文化史』(1953年)によると、寛政10年に発行された「蘭学者相撲見立番付」で、西前頭11枚目に載っていたというから、かなり名の通った蘭医であったことが窺えます。
榕菴の母は江沢養寿の娘で、榕菴は教育をもっぱら母から受けたといいます。幼いころから本草学が大好きで、野山から草や木の葉を採取してきては書物と引き合わせて遊んでいたようです。