
「筑紫の国に湯浴(ゆあ)みにまからむ」
平安時代初期に書かれたわが国最古の物語で、作者不詳の『竹取物語』に出てくる一節である。湯浴み―。何と美しい響きをもった日本語だろう。日本ならではの言葉である。
同じく平安時代の『土佐日記』(935年から数年以内に成立)にも出てくる。
作者、紀貫之の「湯浴みなどせんとて、あたりのよろしき所におりてゆく」
岩波書店の『広辞苑』を見ると、「湯浴み」の意味が次のように説明されている。
「①湯に入って身体を温め、また洗うこと。入浴。沐浴(もくよく)。②温泉に入って病気などを治すこと。湯治」
病を治療するだけではなく心身を清浄にする湯浴み
湯浴みとは湯に入ること、また温泉で病を治癒することで、まさに湯治をすることであった。湯治の本質は「ただ湯に浸かり、心身を癒やす」ことにある。
心身を癒やすとは、「心身を清浄にする」ことでもあると考える。しかも湯浴みの神髄はここにこそあると、私は考えている。湯に浸かること、その根底にあるものは心身を清浄にすることだと。即ち湯垢離(ゆごり)の心である。神道の”禊ぎ”に行き着く。したがって、『広辞苑』の湯浴みの意味はこの部分を付け加えなければならないだろう。これは日本人の精神性を鑑みると、大切なことと思われる。
なぜなら、身体を洗うだけなら家庭の風呂で十分だろうし、病気を治すなら、医療保険がきく現代社会では病院へ行ったほうが手っ取り早いだろうから。ただ私個人は病院ではなく、温泉へ行くのを習わしとして来たのだが―。
クローン人間すら生み出せる科学技術を人類が取得した現在、なおも”湯治”という習慣が完全には廃れずにあり、若い人たちの中にも静かな”プチ湯治ブーム”が続いていることなどを見聞きするにつけ、そう思える。