”温泉教授”の毎日が温泉 第46回 良い温泉とは心の力みが抜けて眠くなる

無垢の温泉と〝無我の境〟で向き合う

 湯は無我にして、天地自然にしたがふもの也―。

北海道・銀婚湯温泉「温泉旅館 銀婚湯」の緑陰の野天風呂「トチニの湯」。 眼下の清流の瀬音に心洗われる(撮影:松田忠徳)

 天地自然のエネルギーによって誕生した温泉は無垢(むく)そのもの。だからこそ、温泉は地表に湧出するとたちまち化学変化を起こし、エイジング、即ち酸化する。
 無垢な温泉に浸かる心の持ち様が大切になる。仏教でいう”無我の境”で温泉と向き合うことが、私の温泉道である。
 無我とは「無心なこと」、即ち「我(が)の存在を否定すること」である。

築明治15年の湯殿と湯煙の美しさ

 20数年前、2年近く日本列島縦断の温泉行脚の旅に出たことがある。鹿児島県・指宿温泉の共同浴場に立ち寄った際、築明治15年(1882)という燻し銀の湯殿に立ち籠めた湯けむりの余りの美しさに感動して、
 「これぞ、日本の文化ですね!」との言葉が、思わず口から漏れてしまった。
 白髪の端正な顔立ちの先客が1人いて、にっこりと頷いてくれた。
 「ここに来たら肉体的にも精神的にもゆったりとでき、無我の境地になれます」。初老の先客はこう語った。
 実に穏やかな表情であった。男性は湯船の縁に横になり、木枕に頭を載せると桶でからだに湯をかけた。

温泉は己を肉体的に精神的に〝解放〟する

 温泉は本来、からだを洗うというよりは、湯に浸かったりかけたり、あるいは打たれたりしながら、己を肉体的に精神的に”解放”する場であったに相違ない。
 温泉のもつ科学的な効能は、こうしたことと密接な関係があったはずだ。今日び、日本人は風呂の入り方までせわしない。辺りかまわずシャワーを振りまきながら、頭や身体を洗うことに汲々(きゅうきゅう)としているのだ。そこには湯と向き合う”余裕”はこれっぽっちも感じられない。
 からだを洗うのなら家庭風呂で十分だろう。にもかかわらず日本人が赤の他人が集まる温泉へあえて出かけるのはなぜなのか?

「輪になって和を極める」という精神

 温泉へ行くと心が豊かになれることが、どうも日本人のDNAに刷り込まれているからのようだ。日本人はもともと「輪になって和を極める」民族である。温泉に行く意味はまさにそこにあったに相違ない。
 共同体精神である。風呂場で「輪になって和を極める」には、入浴マナーを守ることが鉄則となる。他者を思いやる心遣いは、必ずや自分にも返ってくる。

シンプルだからこそ潜む温泉の本質

「温泉旅館 銀婚湯」の大浴場「渓流の湯」併設の露天風呂(撮影:松田忠徳)

 肉体と精神(こころ)は表裏一体のもので、私たちの壊れた肉体の一部を機械の部品のように交換したり、直すだけでは真の健康は得られないことを、温泉と向き合うなかで悟った。
 無垢な温泉を生かすも殺すも、それに身を委ねる私たちの心の持ち様次第である。
 「良い温泉とは肩と心の力みが抜けて、つい眠くなる温泉である」―。2500湯に及ぶ列島縦断の温泉行脚で、こう開眼した。
 結論は単純とも思える。だが、シンプルであることこそ、そこに本質が潜んでいる。Simple is best!  Simple is beautiful! なのである。

タイトルとURLをコピーしました