「清浄であること」が精神の根幹
洋の東西を問わず、人生は”産湯(うぶゆ)”から始まる。 しかも日本では世界でも稀なことに、人生の終わりを”湯灌(ゆかん)”で閉じるのが習わしである。
日本人は「死=穢(けが)れ」と考え、亡骸(なきがら)を清めて大地に還す。湯とは”斎(ゆ)”のことで、この言葉は「清浄であること」を意味する。
心身ともに「清浄であること」が、即ち日本人の精神の根幹を形成してきたからに相違ない。
日本とは異なる〝洗い流す文化〟
一方、世界では一般的にシャワーで汚れを流せばそれでよしと考える。欧米でもアジア、中南米、アフリカでもそうである。バスタブの中でからだを洗う場合でも同じようで、夫婦であっても基本的に湯を共有することはしない。
したがって、西洋で代表されるような”洗い流す文化”は、心まで浸かりながら清める”浸かる文化”の日本人の精神文化と同列には扱えない。