”温泉教授”の毎日が温泉 第76回 ”三途の川”の向こうにある、霊場恐山の霊泉(その3)

温泉の生命線は科学的に‶効く”源泉かけ流し

 大正13(1939)年、田名部の円通寺から発行された『奥州南部恐山写真帖』に当時の温泉分析表、効能、温泉療養に関する注意などが記載されているところを見ると、霊場恐山でも温泉を重要視していたことが十分に窺える。
 現世の日本人の拝観者には温泉ほど極楽気分を味わえるものは他にそうないだろう。事実、私たちが学生のころは温泉に浸かると、誰からとはなく発する「あぁ~、極楽、ごくらく」といった声が聞こえてきたものだ。だが、ここ30年以上、三途の川のこちら(俗界)では耳にしていない。どうしたことだろうか? 
 科学が発展し、科学万能主義が色濃く漂う世の中、宗教心が薄れたためだろうか? 温かな湯に全身を沈めた瞬間、素直に感じる幸せ気分こそが心身に‶効く”第一歩となる。科学技術がどれほど発達しようが、人間の肉体が強靱に進化したという話は聞かない。400年前の江戸時代でも、令和の現代でも、精神が肉体をコントロールしていることには変わりない。
 その次のステップとして、私個人に関して言えば、科学的にも‶効く”源泉かけ流しで、抗酸化力に優れた温泉の利用を提唱してきた。実は私は極めて情緒的な人間で、浴場の雰囲気を重視する。だが、もっと大切なこと、私のバックボーンは優れて科学であるということだ。したがって、こと温泉に関する私にとっての生命線は‶源泉かけ流し”となる。‶生命力ある温泉”という科学的な意味である。これは洞爺湖温泉の湯を産湯としてこの世に生を賜って以来、現在に至るまで変わりない私の‶温泉哲学”でもある。 

乳白色の硫黄泉が満たされた外湯と大浴場

 さて、恐山の境内には4か所もの外湯がある。山門から本殿へ至る境内の左右にある。左側に「古滝の湯」と「冷抜(ひえぬき)の湯」、右側に「薬師の湯」、宿坊の裏手に「花染の湯」がある。いずれも板張りの質素な湯小屋で、霊場恐山の風景に実によくとけこんでいる。恐山を訪れるほとんどの参詣者はそれらが湯小屋だとは気づかないに違いない。以前はいずれも混浴だったが、現在は花染の湯以外は男女別になっている。

恐山菩提寺の境内に4か所もの外湯があるが、気がつかない人も多い(撮影:松田忠徳)

 4つの外湯の他に宿泊者のみが入浴できる大浴場が宿坊内にある。外湯も大浴場も美しい乳白色の硫黄泉が満たされている。もちろん源泉かけ流しだ。硫黄泉にはやはり木造の湯船、浴舎がふさわしい。ただ強い酸性なので、肌荒れを起こす恐れもあるため長湯は控えたほうが良い。 

入浴マナーを褒めた菅江真澄の「奥の浦うら」

 三河国の出身で江戸時代後期の有名な旅行家、歌人の菅江真澄(1754~1829)は、特に出羽、奥羽、蝦夷地をよく旅したが、なかでもよほど下北の恐山が気に入ったようで、5度も登り長逗留した。江戸時代には恐山温泉は地元の人々に‶山の湯”と呼ばれ、親しまれていた。その菅江真澄の「奥の浦うら」に、次のような記述がある。

恐山に5度も登り紀行文を残した江戸時代の旅行家、歌人の菅江真澄

 「剣の山の麓に何地獄、なに地獄とならんで湧きでている間あいだには、ふる滝の湯、ひえの湯、めの湯、花染の湯、しんたきの湯といって、湯桁(ゆげた)が五カ所あり、病人がそれぞれ集まっている。湯浴みするには、女は紺の湯まきをして大ぜいならび、頭に手拭いをかけ、大きなかいけ(手桶)というもので湯をさかんにすくい、これをかぶるといって、百度も千度も頭にうちかけるので、たいそう長い髪のかたちはくずれてぬれ乱れ、あるいはそれを梳るのに、みな目をふさいでいる有様は、ところもところとて、十戒の仏画などを見るように、まるで地獄のふるまいをしていた」

 女性は湯巻き、即ち腰巻きをして入浴していたことが分かる。真澄は別の箇所で男性は湯ふんどしをしていたと記述していて、入浴マナー良いと褒めているが、実際には強い湯で肌がただれるのを防ぐために湯ふんどし、湯巻きなどをしていたものと思われる。

湯治場、療養の温泉として活用された「山の湯」

乳白色の湯が怪しいまでに美しい「藥師の湯」(撮影:松田忠徳)

 山の湯(恐山温泉)は現在とは異なり、古くは湯治場、療養の温泉として活用されていた。現在は湯小屋に入浴時間は3~10分と注意書きが掲示されているが、昔は病気を治す湯であったので、けっこう長湯をしていたようだ。それは江戸期の菅江真澄の記述からも推測できるし、時代は下って何度かふれた大正13年刊行の『奥州南部恐山写真帖』の解説の半分は温泉の効能、入浴法などに割かれているところからも、霊場と‶再生の湯”としての実利的な御利益が重視されていたことが窺える。当然のことだろう。生きている者には現世の御利益こそが第一なのだから。
 『写真帖』に入浴の際の注意が細かく書かれている。「飲用は朝夕の食前半時間乃至(ないし)一時間前になすへし 浴用は一日一回乃至二回 朝八時より九時の間 夕は五時より六時の間食前食後を避く 入浴時間は初めは短く後長くす 十分より五十分位を適当とす」などとある。適切な指導と思われる。

血の巡りが良くなることから名付けられた花染湯

大正13(1939)年に発行された『奥州南部恐山写真帖』に掲載されている「花染の湯」の湯小屋

 現在宿坊の裏手にある混浴の外湯は、江戸時代からユニークな湯として知られてきた。名の由来は中国の‶朱砂泉(しゅしゃせん)”にならった。入浴後、肌が紅く染めたようになるというのだ。
 「花染湯と称するは田名部県宇曾利山中に在り、浴後肌が紅色に染まるをもって朱砂泉と名づく、甚だ賞すべく、凡そ中国にても稀れなる名湯にして日本にてはここ恐山以外にはこの朱砂泉あるを聞かぬ、これぞ天下の名湯なり」(『南部郷村誌』より)
 血の巡りが非常によくなるということだろう。‶若返りの湯”として、女性に人気の湯であったようだ。
 「古滝の湯」、「冷抜の湯」は胃腸病、神経痛、リウマチ、「薬師の湯」は眼病、「花染の湯」は吹き出物、切り傷にそれぞれ特効があるといわれてきた。

現在の「花染の湯」(混浴)の浴場。天井の青森ヒバの梁が見事である(撮影:松田忠徳)

霊場らしい伝説の湯に無我の境地で浸かる

 最後に霊場恐山ならではの伝説を少々長くなるが、森 勇男『南部霊場恐山 由来と伝説』から紹介しておこう。

森 勇男著『南部霊場恐山 由来と伝説』の表紙

 「特に古滝の湯では亡くなった人の名を呼びながら入浴していると窓の外にその人の顔が見えるという伝説がある。
 高い山中の為か、湯の煙りが夕方頃から一層強く立ち上るという。
 このたそがれ時、窓をよっく見つめていると、必ず遭いたいと願う人が、あの世から来て窓を通るというのである。
 その時決して言葉をかけてはならない。今は幽明界を異にするあの世の人であるから、俗界の言葉をかけることは出来ないのである。
 もしこの掟を破ってそのおもかげに言葉をかけると必ずや恐ろしい目にあうという。
 ある時陸中(岩手)のざいから来た中年の男が、亡くなった愛妻のありし日を偲びながら夕暮ごろ冷抜の湯に浸って考え込んでいた。
 外はだんだん暗くなってたそがれ時特有の湯の煙が一段と強くなってきた。風の静かな日であった。ふと窓を見ると、不思議やわがいとしい妻の姿が、今や窓のあたりを通って行くではないか。
 飛び上るや窓の外へ首を出して、大声でついわが女房の名を呼んでしまった。
 とたんに男はハッとした。同じ湯治客から窓の外に思う人が現れても決して言葉をかけてはならないといわれていた。
 ところが自分がいま呼んだ女房はだまって下をむきながら戻ってくるではないか。やれ嬉しや、何から話したらよいか。
 女は窓に近づくと見るまに、パッと顔を上げた。形容の出来ない恐ろしい顔、目、男をにらみつけていた。
 その恐ろしいこと、遂に男はその場に倒れてしまったという。
 俗界と霊界はあくまでも別々の世界だということであろう。
 風呂場から妻を求めて名を呼んだら、その顔は何とも形容の出来ない恐ろしい目であったというのは何か日本神話に出てくる、日本の国を始めて作ったイザナギの神が、亡くなった妻のイザナミの後を追って、死後、魂が行くという黄泉の国に行ってその恐ろしい姿を見てびっくり逃げ帰ったという話によく似ている。 
 ところで、恐山の薬湯はみなこのように恐ろしいばかりではない。それは肌にやわらかいぬくもりを与える霊湯なのである。
 この薬湯五湯は、いづれも山中のわき壺から引いたもので、本堂附近に粗末な小屋を浴舎にあてている。
 浴場は、いま頃珍しい男女混浴であるが、恐山信仰と仏の功徳と併せて参詣する人々の心の安らぎを与える憩いの場ともなっている。
 俗人は、この薬湯で体の塵や汗をはじめ心も洗い流し、心身ともに清らかになって仏にむかうのである」

 いかにも霊場恐山では臨場感のある伝説だ。
 恐山温泉の湯はやわらかく肌への刺激はほとんど感じられない。ただし、あつ湯である。風呂場の雰囲気が良いのでつい油断して、肌を荒らす恐れがある。角質層の水分を失う恐れもあるため、ほどほどの入浴にとどめたい。‶欲浴”は御法度である。
 それにしても、‶三途の川”の向こうの霊泉というのもまた良いものだ。
 こころを穏やかにして、無我の境地で浸かった。
 機会をつくって、来世に旅立つ前にあと2、3度は山の湯で湯浴みをしたい。われわれは温泉に至るまで、多様な個性を有する実に豊かな国に生を賜った。合掌。

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