疲れの解消法がビジネスパーソンのスキルに

疲労回復物質は心身ともにリラックスしているときによく分泌される。日本人にとっては、もっともリラックスした状態は入浴であろう。なかでもレベルの高い温泉は活性酸素を除去することが確認されているので、温泉はさらに良い。ただし都市部の人々に多いシャワーではリラックス効果はそう期待できないし、体温は上がらないため免疫系は十分に機能しない。
温泉に入った日に熟睡できることは温泉好きの日本人なら誰しもが経験しているだろう。良い眠りはそれだけ疲労回復物質の分泌が多くなる。しかし脳が疲れていると良い眠りはとれず、分泌量も少なくなるから疲労物質は溜まり続ける。
”疲れ”、”疲労感”を侮れない時代の真っ只中に私たちは生きている。いかに疲れ、疲労感を溜めないか、その解消法は、ビジネスパーソンのスキルの一部と言える時代に私たちは生きている。
“疲労感“の正体は自律神経の乱れ=脳疲労
”疲労感”の正体は、脳がストレスを受けて疲労することで起こる自律神経の乱れ、即ち自律神経が正常な機能を失った状態である。”脳疲労”なのである。PCのモニターを長時間見ていると眼が疲れるのは現代社会では日常的なことだ。ただ、このとき実際に疲れているのは眼球ではなく、脳だということを正しく自覚すると、自ずから正しい対処法が開ける。早めに手を打つことだ。
疲れを解消せずに放置しておくと、免疫系の機能障害、ホルモン系のバランスも崩れ、強い疲労感を覚え、心身が辛い状態から、日常生活にも支障が生じ始める。「その内に休んだら疲れが取れる」という安易な思い込みではなく、疲労を蓄積せずに定期的に解消する方がはるかにダメージは少ない。日常生活のパフォーマンスも高い。
「予防に勝る治療はない」という温泉を活用した”予防医学”の発想こそ、結果的には金銭的にも安上がりで合理的というもの。こうした発想法を持てないことが日本人の欠点だと私は考えている。具体的に病気になってから行動をするから、手遅れになるリスクが増す。これでは銭を失うばかりだ。仕事のパフォーマンスも低下する。職も失いかねない。
“湯治“という習わしにみる予防医学の発想

ただし、日本人には古来、予防医学の発想はあった。”湯治”という習わしである。時間的、金銭的に余裕をなくした日本人に1週間単位の湯治を求めている訳ではない。そのような発想法が日本人にあったと言っているのである。誰でもなる腰痛、糖尿病、高血圧症、、、、。これらに罹患して薬で確実に治癒する時代ではないことを、ほとんどの日本人は気付いている。なのに未だに対処療法にだけ頼っていることを指摘しているのだ。
「去年、草津で湯治しなかったから、どうも今年は風邪を引きやすく、体調が優れない」―。こんな言葉は半世紀前までなら、日常的に聞かれた。明らかにこれは予防医学としての温泉の役割の大きさを語っている。信州の白骨温泉で湯治すると3年風邪を引かないという言葉が昔から知られている。
人生100年時代、健康をあなた任せにしないこと
国民皆保険制度は実にありがたい制度で、北海道で病院にかかっても、東京でかかってもほぼ同じ治療を同じ安い料金で受けることができる。これはこれで素晴らしいシステムだが、1963年に始まったこの制度の中で、日本人は自分の健康をあなた任せにしてこなかったか。自ら自分の健康を考えることを放棄していやしないのか。自分の健康を考えるということはいかに病気にならないように日々の生活の中で考えるかということだ。医師は病気を治す専門家で、わが国では予防の専門家ではない。
三大都市圏を中心に近年、温泉施設が増加の一途をたどっていることはすでに指摘してきた。そうした中からコストパフォーマンスに優れた施設を見つけ、週1、2度の割合でストレス解消の”予防”を実践したいもの。病気はストレスが原因である。
昔のように山中で1週間、1か月の湯治をする精神的、金銭的余裕はない。実際には日本人はそれくらいの金銭的余裕はあるのに、「病気になってから医者にかかるのが合理的」という発想で、先に指摘したように薬なしには血圧ですら下げられない体たらくぶりに陥っている。糖尿病に至っては、ほぼお手上げ状態なのである。
人生100年時代という、ある意味恐ろしい時代と直面している。正しい科学的知識を持つことと、健康をあなた任せにしないことー。温故知新とはよく言ったものだ。私の立場からは日本の湯治の発想法に学びたい。
都会の温泉が果たして効くのか? これは温泉学者としての私の新たなテーマだ。