”温泉教授”の毎日が温泉 第70回 幕末の風雲児、坂本龍馬の”日本初の新婚旅行”の行き先は霧島の温泉だった(その1)

霧島国際ホテルの営業終了で思い返す坂本龍馬

塩浸温泉(鹿児島県・霧島市)が坂本龍馬とおりょうの日本初の新婚旅行の地、新婚の湯であることを伝える看板(撮影:松田忠徳)

 令和3年1月31日付けの日本経済新聞に「有力ホテル、廃業・休館続出」との記事が出ており、読み進めるうちに「・・・地方のホテルでも影響は大きい。坂本龍馬が新婚旅行で訪れたといわれる鹿児島県の霧島温泉では、創業50年の霧島国際ホテル(霧島市)が5月20日で営業を終える・・・」云々とあった。
 二十数年前に「霧島国際ホテル」を2度ほど取材したことを思い出した。良い温泉ホテルという印象があっただけに、非常に残念なことだ。
 日本経済新聞の記事にもあるように、幕末の英傑、坂本龍馬は新婚旅行で霧島を訪れている。かなり昔に、新聞や雑誌に何度か龍馬の新婚旅行と温泉のことを書いたことがあったが、この機会に手持ちの資料を読み返してみた。
 坂本龍馬の霧島温泉郷への新婚旅行は、日本の新婚旅行の第一号でもあった。もちろん連れはおりょう。時は江戸時代末期の慶応2(1866)年3月であった。

約1か月、湯治場に宿泊した龍馬の新婚旅行

 霧島は江戸時代も現在も日本を代表する温泉地である。近年のように海外が新婚旅行の目的地に選ばれるようになる以前、半世紀ほど前までは、登別、熱海、白浜、有馬、別府、霧島、指宿などの有名温泉地が新婚旅行の目的地に選ばれた。いま考えるに案外、坂本龍馬の影響が大きかったのかも知れない。それほど幕末の風雲児、坂本龍馬という魅力的な人物の出現のインパクトは大きかったし、現在でもなお人気は高い。
 龍馬、おりょうの2人は新婚旅行で、高千穂、霧島神宮、犬飼の滝などを訪れたが、日当山温泉、塩浸温泉、栄乃尾温泉、硫黄谷温泉など、ずいぶん温泉に立ち寄った。宿泊したのは霧島神宮での一日を除いて約1か月すべて温泉地泊であった。なかでも、もっとも滞在日数が多かったのは塩浸温泉である。目的は手指の刀傷の治療であった。
 なぜ龍馬はおりょうと霧島山系の懐に抱かれた湯治場に行くことになったのか? その理由を知るためには、歴史を大きく動かした土佐の一浪人、坂本龍馬の奔走を振り返らなければならないだろう。

霧島温泉郷の中核、丸尾温泉地区にある私好みの「旅行人山荘」(霧島市)の露天風呂。広大で閑静な森に露天風呂が点在し、別荘感覚で温泉を楽しめる(撮影:松田忠徳)

寺田屋事件と西郷隆盛の薩摩への誘いと

 嘉永6(1853)年のペリー艦隊の来航によって幕末の火蓋が切られる。日米和親条約、五カ国修好通商条約、尊皇攘夷の志士の決起と弾圧、そして桜田門外の尊皇攘夷派による井伊大老の暗殺・・・。
 薩長連合-。薩摩藩と長州藩が手を握れば幕府は倒れる。誰しもがそう思ったが、それが実現するとは誰も考えなかったこともまた、事実であっただろう。それほど両藩は反目し合っていた。
 ところがその奇蹟を四国・土佐の坂本龍馬がもたらした。慶応2(1866)年1月21日、京都で龍馬は互いに仇敵視していた薩摩と長州の間を取り持って、260年以上も続いた江戸幕府を倒すための秘密同盟を結ばせることに成功したのだ。
 この大仕事の直後の1月24日、龍馬は京都伏見の船宿、「寺田屋」で幕府方の襲撃を受けるが、寺田屋の養女おりょうに助けられる。世に言う「寺田屋事件」である。
  司馬遼太郎の名作『竜馬がゆく』から引用する。

 おりょうは、素裸になった。(略)ゆっくりと戸をあけ、なかに入り、鉄砲風呂のふたをとった。濛(もう)、と湯気があがり、薄暗い湯殿行燈が、いっそう暗くなった。奇妙なことに気づいた。湯気が流れているのである。
 (なんだ。・・・)
 と、おりょうはわれながら、自分のうかつさがおかしくなった。窓があいている。(略)おりょうは手をのばしてそれを閉めようとして、あっと声をのんだ。裏通りに、びっしり人がならんでおり、提灯が動いている。
 (捕吏。-)
 と思ったとたん、おりょうはそのままの姿で湯殿をとびだした。自分が裸でいる、などは考えもしなかった。裏階段から夢中で二階へあがり、奥の一室にとびこむや、
 「坂本様、三吉様、捕り方でございます」
 と、小さく、しかし鋭く叫んだ。

 寺田屋事件の後に龍馬と結婚することになるおりょう(1841~1906)は、京都の町医者、楢崎将作(ならさきしょうさく)の長女として生まれたが、家が没落し寺田屋に奉公に出ていて、龍馬と出合ったのだ。

 「幕吏が、坂本先生をつけ狙っています。(略)いかに先生が寺田屋で百人の包囲を突破されたとはいえ、手を負傷されたいまは存分な働きは成りませんぞ」
 薩摩の若者たちは、龍馬の前後をかこんで歩き出した。
 薩摩邸では、西郷が待っていた。龍馬が帰ってくるなり、その部屋に入ってきて、「坂本様、薩摩へ遊びにお行きなはらんか」と、ひどく魅力的な案を出した。いい温泉がある、というのである。

(司馬遼太郎『竜馬がゆく』)

 西郷隆盛は温泉好きだっただけに、「傷に効く」霧島山中の塩浸温泉のことを良く知っていた。

西郷どんが温泉ざんまいの日々を過ごした栗野岳温泉

日当山温泉を代表する私好みの名宿「野鶴亭」{霧島市)のエントランス(撮影:松田忠徳)

 薩摩、大隅、現在の鹿児島県はわが国を代表する温泉県である。そのなかでも”西郷どん”ゆかりの温泉はいくつか知られており、もっとも有名なのは霧島市国分の日当山(ひなたやま)温泉だろう。日当山は西郷どんが明治維新の前後から西南の役で没するまで、頻繁に訪れ釣りと狩猟を楽しみ、その合間に温泉に浸かったお気に入りの土地であった。
 霧島連山の西端の栗野岳の中腹、三方をアカマツの原生林に囲まれた温泉、栗野岳温泉も、やはり西郷どんゆかりの湯治場である。現在大きな一軒宿「南州館」がある。言うまでもなく「南州」は西郷どんの号である。明治新政府の要職を捨て、郷里の鹿児島に帰った西郷どんが、栗野岳で3か月も温泉三昧の毎日を過ごしたことにちなんで付けられた屋号であった。明治9(1876)年のことだ。
 霧島は私も頻繁に訪れる魅力的な土地だが、栗野岳温泉はここ数年ご無沙汰している。じつは栗野岳も私のぞっこんの温泉のひとつで、ここまで書き進めるうちに落ち着かなくなってしまった。コロナ禍で昨年は鹿児島県まで出かけられなかった。無性に栗野岳の濃厚な湯、「竹の湯」に入りたくなった。 

「野鶴亭」の露天風呂。肌に優しい重曹泉は特に女性に喜ばれている(撮影:松田忠徳)

経営者の温泉への見識がうかがえる「南州館」

 明治39(1906)年に造られたという年季の入った扇形の石造りの湯船から、灰色の明礬緑礬泉があふれる。地元では”泥湯”とも言われるだけあって、湯船の底に湯の花が大量にたまっているのだ。女性たちは「美肌になる」と、この泥を全身にくまなく塗ることを習わしとしてきた。
 宿のご主人が言うには、「湯治や温泉通のお客さんは2月が多いのです」。宿の裏の湯元、八幡地獄が渇水期に入ると、泥がもっとも濃くなることを心得ているからに違いない。
 じつは「南州館」は1軒で4種類もの異なる泉質をもつ、西郷どんの時代も現在も変わらぬ全国でも希な湯治場なのだ。しかもこの恵まれた源泉をそれぞれ独立した浴舎に引いているところに、経営者の温泉に対する見識の高さをうかがわせる。さすがに温泉通、西郷どんが愛した湯治場である。
 たとえばラジウム泉は「蒸し風呂」に使用している。ラジウムは吸入によりもっとも効果を発揮するからだ。ここの蒸し風呂は、天井の低い石室(いしむろ)構造。ラジウム泉は地表に湧出すると、含有成分が大気中に散逸するため、それを防ぐ智恵なのである。
 蒸し風呂の裏手に炭酸泉が湧出する「飲泉所」がある。この泉質の多いドイツなどヨーロッパの温泉地では、「温泉はミネラル豊富な飲む野菜」と言われるほど飲泉が盛んだ。
 乳白色の硫黄泉がふんだんにあふれる「桜湯」は風情のある湯殿で、ここも私のお気に入りの湯だ。
 歴史的な人物のゆかりの温泉、温泉旅館が多い中で、栗野岳温泉は西郷隆盛が3か月も滞在した当時のまま「温泉とは何たるか」を、私たち現代人に突きつけている。

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