回廊式日本庭園、長州藩士ゆかりの「松田屋ホテル」

温泉通の西郷隆盛に対して、もう一方の坂本龍馬は四国は土佐の出身だったが故に、当時としては温泉に親しむ機会はなかった。1年前に長州の山口郊外の湯田温泉に入ったのが最初であった。ちなみにその風呂は湯田温泉を代表する老舗旅館「松田屋ホテル」の「維新の湯」で、現存する。
現在の山口市内にある湯田温泉は有名な詩人、中原中也の生誕地としても知られ、記念館もある。高校生のころから詩が好きだった私は、湯田温泉を訪れるたびに「中原中也記念館」にも足を運んでいる。
湯田はまた、放浪の俳人、種田山頭火がいっとき「風来居」という庵を構えていた土地で、温泉街に句碑がある。「山頭火と川端康成は真に温泉を愛した文学者だった」というのが私の評価である。もちろん私は中也も山頭火も好きで、また松田屋ホテルはいわば私の定宿で、湯田は私にとって特別な思い入れのある温泉といえる。

温泉街でひときわ異彩を放つ門構えの松田屋ホテルは、長州藩士ゆかりの宿として歴史好きの人々にはつとに知られる。江戸中期に造られたという回廊式日本庭園には、三条実美手植えの松の木、奥には西郷隆盛、木戸孝充、大久保利通の会見所が残されている。
圧巻はこの3人に加え、坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文らが入浴した「維新の湯」だ。総御影石造りの浴槽からあふれる澄明な湯にからだを沈めると、身が引き締まる想いがしたときのことを懐かしく思い出す。
泊まるなら大正時代に建てられた本館の1階の部屋、「101萩の屋」や「102高杉」などがいいだろう。回廊式日本庭園に面しており、部屋から直接庭に出られる。

島津義久の居城・富隅城から霧島の山々を眺める
西洋に新婚旅行の風俗があることを聞いていた坂本龍馬は、薩摩藩の家老小松帯刀(こまつたてわき)や西郷隆盛の、”薩摩での温泉療養の勧め”に機転を利かせ、おりょうを伴って霧島をまわることにした。「縁結びの物見遊山」である。鹿児島滞在も含めると3か月もの長逗留となるが、費用は薩摩藩持ちだった。


国に帰る小松帯刀、西郷隆盛、それに薩摩藩士で、後に明治政府の官僚となる吉井幸輔等に同行して、おりょうとともに薩摩藩の軍艦「三邦丸」で、慶応2年3月5日、大坂沖を出帆した。瀬戸内海、下関、長崎経由で薩摩入りしたのは3月10日。
臥竜梅が咲き誇る小松帯刀の別荘でしばらく静養した後、3月16日、霧島に湯治に行く小松帯刀に同行して、帆船で錦江湾(鹿児島湾)を浜之市(はまのいち)港へ向かう。船からは霧島連山が遠望できた。昼過ぎに浜之市港に到着。浜之市は藩政時代には重要な港であったが、鉄道や国道が整備された現在では、小さな漁港である。
上陸後、同行する吉井幸輔(よしいこうすけ)の案内で、富隅城跡の丘からこれから滞在する霧島の懐深い山々を眺めた。富隅城には豊臣秀吉に破れた島津氏第16代当主、島津義久が居住していたことがある。島津義久は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。一時は九州の大半を手中に収め、島津氏最大の版図を築いた戦国大名であった。
‶天下の名泉”と西郷どんが称えた日当山温泉の元湯
新婚旅行の最初の温泉は浜之市港のすぐ近く、天降川下流の両岸に開けた鹿児島最古の温泉といわれる日当山(ひなたやま)温泉である。先にふれたように「これぞ天下の名泉!」と称えた西郷どんがもっとも愛した温泉だ。

日当山の主な泉質は”美肌の湯”、女性に人気の肌にすべすべの重曹泉。温泉街の入り口近くの国道沿いに、当時の姿をほうふつとさせる高さ約3.5メートルもある巨大な西郷どんの像がある。浴衣にゲタ履き、釣り竿とびくを手にご満悦の表情である。日当山温泉の人々の西郷どんに寄せる愛情が伝わってきそうで微笑ましい。
現在、日当山には下町風情の公衆浴場が20軒前後もある。鹿児島県民は無類の温泉好きなのである。温泉旅館も10軒ほどある。西郷どんがよく訪れたころは、湯壺は後に「元湯」と呼ばれるようになる混浴の共同湯がひとつあるだけだった。
元湯は瓦葺きの屋根で、四方板壁、浴場は石畳だったが、湯壺(湯船)の底は土間のままだった。つまり”直(じか)湧き”、泉源の上に湯船を設えたようだ。湯温はそれほど高くなかったと思える。その元湯が現在の「西郷どん湯」だという。地元の人たちは「せごどんの湯」とも呼ぶ。
私が入浴に訪れたときは2度とも番台には誰もおらず、自分で料金箱に入れるのどかな温泉だった。タイルの浴槽がふたつ並んでいて、やわらかで透明な湯がかけ流されていた。龍馬はおりょうと一緒にこの川辺の湯に浸かったのだと思うと、思わず嬉しさがこみ上げてきたものだ。

2人の宿泊先は西郷どん湯の前にあった名家、龍宝伝右ヱ門宅。そこは西郷どんの”定宿”であった。もっとも定宿といっても、当時の日当山には宿はなかった。伝右ヱ門宅ではおもて座敷を借りて、家人と一緒に食事をしたようだ。
花瀬金助宅に泊めてもらうこともあったという。何せ確かな記録だけでも日当山温泉で湯治をしたのは「十数回以上」(三島 亨『日当山温泉南洲逸話』)で、しかも静養目的だったから滞在日数も長かった。
龍宝伝右ヱ門の古い民家は長い間、「南洲翁ゆかりの宿」として大切に保存されていた。ところが老朽化で傷みがひどくなったため、楠の大木が生い繁る蛭児(ひるこ)神社の境内に移築、復元された。「西郷どんの宿」は見学することも可能である。
天降川の支流に残されている龍馬が浸かった湯壺
翌朝、龍馬は新婚旅行の目的地である塩浸温泉へ向かった。有名な犬飼の滝の上を通った。このときは瀑布の音を聞いただけだった。

龍馬、おりょうが長逗留することになる塩浸温泉は現在の妙見温泉のすぐ先、国道223号沿いに湯けむりを上げる。
塩浸(しおひたし)は江戸時代後期の文化3(1806)年ごろに、温泉で鶴が傷を癒やしていたところ発見されたということで、”鶴の湯”と言われるようになった。
龍馬とおりょうが鶴の湯(塩浸温泉)を訪れた目的は寺田屋事件で負った手の怪我を治癒するためであった。このとき2人が毎日入浴したといわれる湯壺が天降川の支流、石坂川の縁に残されている。江戸時代からの湯船だと言われているので、間違いないのだろう。ただ現在は入浴できない。
塩浸温泉は当初、鶴の湯と呼ばれていたことは先にふれた。”谷の湯”とも呼ばれていたようだ。谷川の縁に湧いたいたために違いない。龍馬が入浴した湯船の位置を見ると一目瞭然である。雨で水かさが増すとたちまち水没しただろうことは容易に察しがつく。ちなみに龍馬が訪れたころにはもう塩浸温泉と呼ばれていた。