京都の街角に迷い込んだような活況の跡
「江差の5月は江戸にもない―」と謳われた18世紀半ばからのニシン漁の最盛期に、多くの廻船問屋や土蔵が軒を連ねていた中歌町、姥神界隈―。当時の人口は3万人を数えていたというから、その活況は推して知るべし。現在でも歴史薫る街のいたるところで、長い歳月が刻んできた古い民家や土蔵に出合い、京都の街角にでも迷い込んだような錯覚にとらわれることがある。
藩政時代の繁栄を支えた北前船と浜街道
函館から北西へ約70キロ、檜山地方の中心、江差町は、江戸時代から明治の初期にかけて、檜材の産地、ニシン漁の基地、また蝦夷の代表的な商業港としても栄えた。
蝦夷地を治めた松前藩は、石高のない特異な藩で、その存亡は、ニシン漁と日本海を舞台とした交易にかかっていたといってもいい。だから江差とその界隈、現在の檜山地方は、松前藩の経済の要だった。そしてそれらの物資の交易に活躍したのが、よく知られている北前船こと弁財船だ。
江差で積み込まれた檜材やニシンは、主に大坂や堺に運ばれ、北前船の往来によって、この地に京の文化が生まれ育った。
藩政時代、函館、福山(松前)、江差と鼎(かなえ)の足のようにその繁栄を競い、政治の中心福山と商業の中心江差を繫ぐ”浜街道”、現在の日本海沿いの国道228号及び229号は、北海道唯一の藩、松前藩の要路として、多くの人々の足跡を残した。