
現在のように「温泉」を「おんせん」と読むようになったのは、16世紀から江戸前期の17世紀にかけてからで、日本人の温泉との長い関わりの歴史を考えると、比較的新しいと言えるでしょう。
それまでは「温泉」を「ゆ」と読んでいました。私たちは現在でも温泉のことを「湯」と言っているのはそのようないわば”温泉DNA”なるものが刷り込まれているからだ、といってもあながち間違いではなさそうです。
中国語の「温泉」を訓じた「由」が使われる

奈良時代の『古事記』、『万葉集』、『風土記』などには、「温泉」は漢字記述の中にのみ見られ、万葉仮名の表記にはありません。漢字記述は当時の中国音で発音していたと考えられ、その訳としての「訓」から、日本語としての「由(ユ)」が日常的に用いられていました。
たとえば奈良時代末期に成立したとみられる、現存するわが国最古の和歌集『万葉集』では、漢字で書かれた題詞に「温泉」の文字を7例見ることができますが、万葉仮名で書かれた歌の部分に「温泉」の文字はありません。温泉に相当する言葉はすべて「湯(ゆ)」と訓じられています。
日本人と温泉の関わりがリアルに表現されている『出雲国風土記』(733年頃成立)では、「薬湯」、「湯井」、「湯泉」などの用例が見られますが、「温泉」の表記はありません。『古事記』を含めて奈良時代には、中国語の「温泉」、「湯泉」を訓じた「湯(ゆ)」が一般に使われていたと考えられます。
奈良時代の開湯ともいわれている島根県の古湯、温泉津温泉を「ゆのつ温泉」と呼ぶのも納得がいきます。
『色葉字類抄』に見られる「出湯(イデユ)」の言葉
決定的なのは平安前期に完成した、わが国最初の百科事典的な分類別漢和辞書として評価の高い『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』(934年頃成立)でしょう。この辞書の巻1に「温泉」の項があり、その注に和名が「由(ゆ)」と記されていることです。
同じ平安前期の有名な『古今和歌集』から、鎌倉初期の『新古今和歌集』に至る300年間に、『後撰和歌集』、『後遺和歌集』、『後拾遺和歌集』、『金葉和歌集』、『詞花和歌集』、『千載和歌集』などの勅撰和歌集が編まれていますが、題詞にも和歌にも、「温泉」の文字は見られません。温泉はすべて「湯」で表現されていました。
和歌集だけではなく、『竹取物語』、『伊勢物語』、『土佐日記』、『枕草子』、『源氏物語』、『更級日記』、『方丈記』、『徒然草』等々、14世紀半ばまでの中世の代表的な文学作品も、やはり仮名の「ゆ」、あるいは「湯」で温泉を表しています。
これらは私の求めに応じて、かつての同僚、国語学の乳井克憲教授の協力で、古典作品群をデータベース化することによって20年程前に確認できたものです。
ちなみに平安時代末期の有名ないろは引き国語辞典『色葉字類抄』(1181年)巻上に「温泉」の用例が出ていて、「イデユ」とカタカナがふられています。またその直下に「出湯」の項があり「同」の脚注が付けられています。
最近では「出湯(いでゆ)」という言葉は日常的には用いられなくなりましたが、昭和の終わり頃までは「山の温泉」の代わりに「山の出(いで)湯」という表現がよく使われていたものです。かつて温泉といえば都から遠い辺鄙な山奥にあったため、特に明治に入ってから、山と出湯をセットで使用するのが慣わしとなったものと考えられます。
16世紀頃から「温泉」は「をんせん」と発音
大きな変化が現れた貴重な文献が『湯山聯句鈔(ゆのやまれんくしょう)』です。明応9(1500)年に有馬温泉で湯治した禅僧、寿春妙永(じゅしんみょうえい)と景徐周麟(けいじょしゅうりん)が交互に句を連ねた有名な「湯山聯句」について、一韓智翃(いっかんこう)が口語注を施した抄物で、ここに「温泉」の説明が出てきます。
「温泉ト云モ、驪山ニハ、出湯(いでゆ)ガ有テ、温カデ、沸ホドニ、ソレヲ温泉ト云ゾ。ソコニ玄宗ノ行幸(ぎょうこう)シテ、与貴妃入ラレシ処ニ宮ヲ立ツレバ、温泉宮ト云ゾ」
このように、16世紀頃には「温泉」は「をんせん」と読まれるようになっていたと推測されます。
ちなみに『湯山聯句鈔』に出てくる温泉は、古代中国の隋(581~619)、唐(618~907)の時代に栄えた都、長安(現在の陝西省西安)の郊外にあった驪山(りざん)の麓の華清池温泉を指します。わが国でも江戸時代以前から、秦(?~BC207)の始皇帝(BC259~BC210)も静養したと伝えられるこの歴史的温泉での、唐の第6代皇帝玄宗(685~762)と楊貴妃(719~756)のロマンスはよく知られていました。

徳川家康が天下人となった翌年、慶長9(1604)年に刊行された日本イエズス会の『日葡辞書』にも読み方が出てきます。そこに「Vonxen」の意味として、「Atatacanaizumi(温かな泉)」と記されています。Vonxenは「をんせん」と発音します。「を」はワ行の音で「uo」に近い音です。この辞書は当時すでに「温泉」という言葉が現代に近い発音で使われていたことを教えてくれていると考えて間違いないでしょう。
元禄2(1689)年の春から秋にかけて、松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅をしますが、そこには明らかに「をんせん」と読むべき4カ所の温泉が出てきます。ただし地の文では「温泉」を用い、俳句では「湯」でした。
江戸後期に出版された『江戸名所図会』(天保5~7年=1834~36年)には42カ所の温泉、また八隅蘆庵(やすみろあん)の有名な『旅行用心集』(文化7年=1810年)には292カ所の温泉が出てきます。この頃にはもう、「温泉」を「ゆ」ではなく、「をんせん」と読む習わしが定着していたものと思われます。
「湯」は「本物の温泉ような風呂」のこと
蛇足ながら、奈良時代から江戸時代の中、後期あたりまでは、「風呂」といえば「蒸し風呂」を指していました。現代風にいえば”ミストサウナ”です。平安時代末期の寿永3(1183)年に、高僧重源が鋳物師・草部是助に鋳造させた大きな湯釜が現在に伝わる、奈良の東大寺の「大湯屋」が有名です。蒸し風呂はすでに奈良時代には各地に広まっていました。
現代のような風呂を町中に造るにはお湯をたっぷりと使用しますから、容易なことではありません。もちろん現代のように車のなかった時代に、水の確保、お湯を沸かす薪の確保ともに大変な労力となります。したがって、湯釜でお湯を沸かし、その湯気を隣の密閉した室内に送り込んで、そこで体を蒸す風呂がほとんどでした。ですから本物の熱い温泉はまさしく天与の恵み、薬湯だったわけです。
江戸後期に江戸庶民の銭湯の様子を活写した生粋の江戸っ子作家、式亭三馬の有名な滑稽本『浮世風呂』も、もちろん蒸し風呂でした。
蒸し風呂の「風呂」に対して、現在のようにお湯の張られた風呂が「湯」と呼ばれていたのは、もうお分かりのように、温泉からイメージしたものだったのです。明治時代に東京のような都会で「◯◯温泉」などと称した風呂屋が人気だったのは、地中から湧いてきた温泉ではなく、山の出湯のようにお湯がなみなみと張られた「本物の温泉のような風呂」という意味でした。温泉は庶民の憧れでした。
江戸末期から明治前期の辞書にも記された「温泉」
話をもとに戻します。ローマ字で有名なヘボンが編集した『和英語林集成』が江戸末期の慶応3(1867)年に出版され、そこにも「温泉」が出てきます。
安政6(1859)年に宣教師として来日したアメリカ人ヘボンは、なんと8年後には日本語見出し約2万語をローマ字で表記した和英辞書を刊行したというから驚きです。日本語の発音を適確に表したローマ字は”ヘボン式”としてよく知られているところです。
『和英語林集成』はヘボン式ローマ字で表記された日本語見出しを、カタカナと漢字でも表し、その後に品詞名をあげ、英語で説明したものでした。「温泉」の項は次のようになっています。
「O’N-SEN ヲンセン、温泉、n.A hotspring Syn. IDE-YU」
和英辞書に収録された語彙は、ヘボンが日本の言語生活の中で採取したものであったことを考えると、「温泉」は幕末期には広く日本人の生活に根付いていたことが窺えます。温泉の同義語として、しっかりと「出湯」をあげている点も見事です。
明治前期に日本人が編纂した辞典も見ておきます。明治21(1888)年に高橋五郎は『漢英対照いろは辞典』を出しています。そこでは「をんせん(名) 温泉、いでゆ、鉱泉、浴泉、沸泉、Hot-spring」と書かれています。
「鉱泉」が出てくるのは宇田川榕菴の影響でしょう。第17話で改めて触れますが、明治時代には榕菴の『舎密開宗』外篇の影響で鉱泉という言葉が広まっていました。熱海鉱泉、草津鉱泉、有馬鉱泉などと、現代人の認識とは異なった状況にあったのです。高橋五郎の辞書にもこれが如実に反映されていたのです。