”温泉教授”の毎日が温泉 第88回 木造建築の旅館と浴舎は温泉文化の極み ~ 箱根温泉郷は今後は国際的な温泉地となる

日本人の精神的なDNAを取り戻す‶癒しの湯”

 日本の温泉文化の真骨頂のひとつは、旅館と浴舎の木造建築にあります。訪日外国人観光客のあいだで温泉が大変人気なのは、このことと密接な関係があると思われます。旅館料理も含め、温泉場は日本文化の粋を結集したところだからです。まさに温泉旅館は‶オンリーワン”の日本の個性といえます。和風建築あっての日本の温泉文化なのです。

天和元(1681)年発行の「豆州熱海全図」(松田忠徳・所蔵)

 一方で温泉旅館は、近年、日本人にとってのアイデンティティー(存在証明)確認の場としての役割を、いちだんと高めているように思えます。若い女性たちの和風志向にも表れています。現在、日本人の多くが都市に住み、高層マンションはもちろんのこと、戸建て住宅であっても洋風の生活を送っている。それだけに木の廊下と畳のある旅館建築は非日常には違いないのですが、それよりも日本人の精神的なDNAを取り戻す一級の‶癒やしの場”そのものにもなっていると思われます。

熱海で300年も昔に起きていた‶離れブーム”

 現在も各地にわずかながらに残されている木造の温泉旅館建築の‶原型”は、江戸時代の熱海温泉にありました。熱海は‶天下人”徳川家康が関ヶ原の戦いの前後に静養するほど、もっとも信頼していた温泉でした。
 江戸幕府を開いた後、家康は熱海を幕府の直轄領とし、将軍家の別荘を建てたほどです。家康の後継者たちも家康の想いに応えるかのように、熱海の湯を江戸城まで運ばせ湯治をするほどのこだわりを見せました。もっとも多く運ばせたのが有名な8代将軍吉宗です。かくして熱海は‶King of Onsen”に上り詰めたのでした。

熱海から将軍様ご用達の御汲湯を江戸城へ運ぶ想像図(『熱海歴史年表』。松田忠徳・所蔵)

 したがって、「将軍家が愛する熱海の湯に浸かりたい」と、参勤交代で江戸詰めの諸大名が熱海詣でをするようになったのも自然の流れでした。熱海には幕府から認められた27軒の湯戸(宿)があり、今井半太夫と渡辺彦左衛門の2軒は大名が投宿する本陣に指定されていました。興味深いことに、当時の絵図を見ると本陣の今井家に一碧楼、脇本陣の渡辺家には一色亭という‶離れ”が存在します。
 あまり知られていないことですが、現代で言えば由布院温泉の離れの宿が長い間女性たちを魅了してきたように、熱海ではすでに300年も昔から‶離れブーム”が起きていたのです。江戸屋の望洋亭、清水屋の枕流亭など、27軒の湯戸の多くが離れで競っていたことが、江戸期の文人たちの紀行文からわかります。 
 しかも現代の離れとは異なり、一戸当たりの部屋数は多く、今井家の先に紹介した一碧楼とは別の離れ、二楽亭では4間もあり、もちろん浴場付き。さらに相模灘に浮かぶ初島を眺めるための望楼付きといった具合でした。部屋も日本の伝統的な書院造りでした。

箱根温泉郷に突出して多い「温泉旅館」の文化財

国の登録有形文化財・箱根塔之沢温泉「福住楼」の廊下。館内も窓枠を含めすべて木造のいぶし銀の”日本の湯宿”(撮影:松田忠徳)

 しかし、大方の温泉場の宿は街道筋の旅籠(はたご)かそれ以下のレベルだったでしょう。なぜなら温泉場は病気を「治癒する場」であったため、宿の構えや部屋の意匠に工夫を凝らす必要性はなかったからです。昭和初期の湯治場ですら相部屋は珍しくはなく、経営者にとってはいかに大勢の湯治客を詰め込むかが腕の見せどころでした。江戸期や明治期の湯治場は、現代で言えば病院のようなものだったから、大部屋はふつうだったのです。
 国が指定・登録する「温泉旅館」の文化財の一覧を見ると、箱根温泉郷が突出して多いことに気づきます。重要文化財に箱根湯本温泉の「萬翠楼福住」を筆頭に、登録有形文化財に小涌谷温泉の「三河屋旅館」、宮ノ下温泉の「富士屋ホテル」と「奈良屋旅館」、強羅温泉「箱根太陽山莊」、塔之沢温泉の「福住楼」、「環翠楼」、それに「塔之澤一の湯」、合わせて8軒。同じ神奈川県で湯河原温泉から3軒。西日本では関西の名門、城崎温泉から4軒。

「福住楼」の名物「大丸風呂」(撮影:松田忠徳)

 ところが熱海、及び関西の‶日本の名湯”有馬からは1軒もない。昭和40年代(1960年代)からの高度経済成長期に、大都市圏の有名温泉地は鉄筋コンクリートの高層化した都市型温泉に変貌したためです。

箱根湯本温泉で起きた「一夜湯治騒動」

 ここに至るまでには伏線があります。
 江戸後期の文化2(1805)年に箱根湯本温泉で起きた「一夜湯治騒動」と関係がありそうです。江戸時代に旅行する通行手形がもっとも入手しやすかったのは神社仏閣詣で、次に病気治療のための温泉行きでした。温泉旅行といっても現在のように日帰りや1、2泊の短期滞在は認められなく、箱根の湯本、芦之湯など箱根七湯での滞在はふつう三廻り(3週間)が基本でした。ところが湯本では1泊だけの客を認めていたため、湯本温泉に近い東海道沿いの小田原宿と箱根宿がお上に訴えたのが、「一夜湯治騒動」の起こりでした。
 ところが湯本側の「一夜湯治の客は問題にされるほど多くない」との反論が功を通したのか、袖の下をおくったのか、湯本の言い分が認められ、予想外の結末となります。
 これを契機に温泉の役割が多様化し始めます。箱根七湯の宿泊形態がいち早く様変わりし、現在のような観光目的の客を対象としたため宿間の競争が激しくなり、高級化、個性化していきます。もちろん旅館建築を競い合います。
 しかし箱根の険しい地形が施設の大型化を阻んだことも、結果として文化財に指定・登録される日本人の琴線にふれるような名宿を数多く残すことに繋がったのは幸いでした。令和の無国籍化された現代に生きる日本人にとって、また外国人客にとっても箱根温泉郷の多様な個性は魅力的に違いありません。
 ぜひ、日本人も‶日本の湯宿”を箱根温泉郷で楽しみたいものです。

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